仏さまのいい話


仏教聖典という本をご存知でしょうか?

この本はお釈迦様のご生涯で、数多くのお説法をされた中のよりすぐりを集められたベスト盤です。現在では日本はもとより、世果各国のあらゆるホテルや図書館等に置いてあり、誰でも開いている時間に読むことができます。

 

こちらのページでは、その中でもさらに分かりやすく、初心者向けのたとえ話をいくつか紹介したいと思います。


姿や形だけでを求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。だから、さとりを見る者がまことに仏を見る。


月が隠れると、人びとは月が沈んだといい、月が現われると、人びとは月が出たという。けれども月は常に住(じゅう)して出没することがない。仏もそのように常に住して生滅(しょうめつ)しないのであるが、ただ人びとを教えるために生滅を示す

人びとは月が満ちるとか、月が欠けるとかいうけれども、月は常に満ちており、増すこともなく減ることもない。仏もまたそのように、常に住して生滅しないのであるが、ただ人びとの見るところに従って生滅があるだけである。
月はまたすべての上に現われる。町にも、村にも、山にも、川にも、池の中にも、かめの中にも、葉末(はずえ)の露にも現われる。人が行くこと百里千里であっても、月は常にその人に従う。月そのものに変わりはないが、月を見る人によって月は異なる。仏もまたそのように、世の人びとに従って、限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わることがない。

仏はただ仏として現われるだけでなく、あるときは悪魔となり、あるときは神のすがたをとり、あるいは男のすがた、女のすがたとして現われる。

病のあるときには医師となって薬を施して教えを説き、戦いが起これば正しい教えを説いて災いを離れさせ、固定的な考えにとらわれている者には無常の道理を説き、自我と誇りにこだわっている者には無我を説き、世俗的悦楽の網にとらわれているものには世の痛ましい有様を明らかにする。


この人間世界は苦しみに満ちている。生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。怨(うら)みあるものと会わなければならないことも、愛するものと分かれなければならないことも、また求めて得られないことも苦しみである。まことに、執着(しゅうぢゃく)を離れない人生はすべて苦しみである。これを苦しみの真理(苦諦〈くたい〉)という。

この人生の苦しみが、どうして起こるかというと、それは人間の心につきまとう煩悩(ぼんのう)から起こることは疑いない。その煩悩をつきつめていけば、生まれつきそなわっている激しい欲望に根ざしていることがわかる。このような欲望は、生に対する激しい執着をもととしていて、見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。また転じて、死さえ願うようにもなる。これを苦しみの原因(集諦〈じったい〉)という。
この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、すべての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。これを苦しみを滅ぼす真理(滅諦〈めったい〉)という。
この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、八つの正しい道(八正道〈はっしょうどう〉)を修めなっければならない。八つの正しい道というのは、正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一である。これらの八つは欲望を滅ぼすための正しい道の真理(道諦〈どうたい〉)といわれる。
これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとする者はだれでも煩悩を断ちきらなければならないからである。煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ到達し得る。さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。

人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。

雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである。
この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識によって育ったものである。
だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
網の目が、互いにつながりあって網を作っているように、すべてのものは、つながりあってできている。一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りである。網の目は、ほかの網の目とかかわりあって、一つの網の目といわれる。網の目は、それぞれ、ほかの網が成り立つために、役立っている。